赤羽茂乃講演会「赤羽末吉の人生」

2010年5月29日(土)

赤羽家の嫁として日々の暮らしや生活のようすを目にし、膨大な作品や資料の整理にも携わってきた茂乃さんが、赤羽末吉さんの波乱に富んだ人生を語ってくださいました。その一部をご紹介します。


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旧満州(中国東北部)での日々
父は22歳のときに単身大連に渡って、運送屋で働きはじめます。初めはひとりぼっちで寂しく暮らしていたわけですが、絵を描くようになって、だんだん画家の友だちもできました。城内(中国人街)に足繁く通ってスケッチし、庶民の味も喜んで食べ歩いていたようです。そのころに母にも出会いました。父は上原謙に間違えられるようなハンサムボーイ、母は水谷八重子似といわれる美男美女のカップルだったらしいんですね。すると祖母が「うちはひとりっ子だからね、私もこみで、一生私の面倒も見てくれるんだったら結婚していいよ」といったらしいんです。父は、このちゃっかりしたおばあちゃんを93歳まで面倒みていました。

父は腕力もないし、あまり運送業に向いていないようなんですけれども、税関を通すときの役人との駆け引きがうまかったらしいんです。あるとき新品を中古にみせて税金を安くして通せ、という仕事が入ってきた。それをうまくやりとげて、満州電信電話会社という会社に、スカウトされたわけです。父は渡りに船と飛びついて、新京(現・長春)に移ります。そのころから満州国美術展に出品をはじめて、3回続けて特選をとるんですね。そうすると会社でも宣伝になるので広報という仕事にまわしてくれる。父はスケッチブックとカメラを手に、満州国中巡り歩いて、その成果を新聞や週刊誌に書きました。その記事の切抜きを引き揚げのときにもってきているのですが、影絵芝居について書いてある文章などを読みますと、本当に微にいり細にいり調べている。父には研究者としての資質というのもあったんじゃないかなと思います。

子どもたちにみせたいもの
父はある日、自分はどんな絵を目指したいかということを考えたんです。まずは深さがほしい、そして格調がほしい、強さもほしい、やさしさもほしい。絵本を描き始めても、この目標は変えませんでした。絵本というものは、子どもが無造作に読むものなんだけれども、子どもだましではいけない。子どもの感性を豊かにする、質の高い絵本を子どもたちに与えたいと考えたわけです。これは子育てでも同じで、父は美しいもの、質の高いものを子どもの身の回りに置いてやりたいと考えていました。子どもが小さいときに住んでいた都営住宅の狭い庭には、四季折々花をいっぱいに植えていました。自分がおもしろいと思った映画を見せたり、吉野の桜が美しいと思ったら連れていったり......そういうことを自分も楽しみながらやってくれたわけです。 父は1990年6月8日に亡くなりました。最後に意識のある父と言葉を交わしたのは私ひとりで、なんとなく父との縁というものを感じます。まだ父の人生を調べはじめたばかりなんですけれども、父を見習って地道にこつこつと調べていけたらと思っております。

 

(上島史子)

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