1963年にモスクワで開かれた世界婦人会議に出席したちひろは、その会議の席上で、夫も子どもも戦争で殺されたベトナム女性の訴えを聞き、深く心を打たれます。

ベトナム戦争が激しさを増した1967年、ちひろは戦争を知らない若い人たちに、戦争の悲惨さを知ってほしいと、被爆した子どもたちの詩と作文に絵をつけた、絵本『わたしがちいさかったときに』(童心社)を描きます。

1970年には、「ベトナムの子どもを支援する会」が呼びかけた街頭ポスター展に、
ベトナムのこども 私たちの日本のこども 世界中のこどもみんなに 平和と しあわせを」と記した作品を出品しています。

1972年は、ベトナム戦争の中でも、最も激しく「北爆」が行われた年でした。この年、ちひろは、ベトナムの女性作家の文章に絵をつけた『母さんはおるす』(絶版)を描き、「母さんは戦場にいっておるす」という詩を新聞に発表しています。
続いて、「子ども」と題した三点の作品を描いて展覧会に出品し、それをきっかけに、絵本『戦火のなかの子どもたち』(岩崎書店 1973年刊)が生まれます。

ベトナムに平和が訪れたのは、ちひろの死後8ヵ月後の1975年4月30日でした。




ベトナム戦争は、日本と直結した戦争でした。

日本の降伏で幕を閉じた第二次世界大戦後、日本はアメリカの占領下に置かれます。1952年のサンフランシスコ講和条約により日本は独立国となりますが、同時に結ばれた日米安全保障条約により、日本各地に米軍基地が置かれるようになりました。

1965年にアメリカ軍が本格的にベトナム戦争にかかわるようになると、日本にある米軍基地は補給基地として、この戦争に深くかかわっていきます。当時アメリカ施政下にあった沖縄の嘉手納基地からは、爆弾を積んだB52機が直接飛び立ち、ベトナムへ爆弾の雨を降らせていました。

それだけに、心ある人々は、立ち上がり、声をあげ、日本でも、ベトナム反戦運動が、大きく広がりました。




30年にわたるベトナム戦争は、対仏独立戦争と南北ベトナムの内戦が中心だった時期を経て、1960年代前半からは、アメリカがかかわった戦争へと変化していきます。

1964年8月のトンキン湾事件をきっかけに、アメリカは1965年2月には北ベトナム爆撃(北爆)を開始、3月には沖縄駐留の海兵隊二個大隊などの米兵3500人を南ベトナムのダナンに上陸させ、本格的にベトナム戦争に介入していきます。
以後、戦争は拡大し、米国はのべ260万人の兵士を派遣、韓国、タイ、オーストラリアからも兵士が送られました。米軍は5万8千人が戦死、30万人以上が負傷しました。ベトナムでは335万人が戦死、サイゴン政府軍22万人、民族解放軍約110万人、民間人約200万人が死亡、その半数は子どもたちだったといわれています。