女学校を出たころに斉藤茂吉の『万葉秀歌』を愛読し、また藤原行成流の和歌の散らし書きで親しんだ万葉集は、ちひろにとって青春の文学でした。ひざを抱え て座るのは、身分ちがいの恋のために越前の国に流された中臣宅守です。「塵泥の数にもあらぬわれ故に思ひわぶらむ妹が悲しさ」(ちりや泥のようにつまらな い自分のために、つらい思いをしているだろう彼女のことを思うと悲しい)。流刑地にありながら恋人の身を案じる宅守の謙虚で温厚な人柄を、ちひろは端正な 横顔で表現しています。人物をおおうように背景に広がる墨の濃淡が、悲恋の哀愁にくれる宅守の心情を暗示しているようです。