ちひろの言葉

むさし野の林の中に土地を買った。いずれ家を建てて住まうつもりである。
けれど、新しい家のことを考える度に、いま住んでいるこの家とその周辺に、私は相当な愛着を感じていることに気がつく。

いろいろな部屋に兼用しているこの仕事場(アトリエとは言い難い)にすわっていて、私はまずこの庭の樹々が好きなのである。十年の歳月は、ひろくもない庭の樹木をみんな大きくし、家のまわりから緑がむんむんおしよせる。部屋の二間程前にそそりたっていたとなりのコンクリートの塀には蔦がみごとにのび、庭木の根本には苔がむしてきた。ここで私は結婚十周年を過ぎ、一人息子は九歳になった。そして息子の愛する友達たちも、この家のまわりで共に丈夫で、元気に大きくなっている。家の周りを走り回るなじみの子どもたちの歓声に、思わず目を細めたりして、私はここで、忙しく仕事をつづけてきた。

あとどのくらいここに住むのか、家を建てるお金が出来るまでのことだろうが、蔦とつるばらと子どもたち、十年の歳月がつくりあげたこの家の生活は、私には本当にすてがたい。

「ひとつのねがい」(羽後銀行)14号1960年より

朝顔が五つ咲き、小雨がぱらついて朝をむかえました。

きょうは絵本ができてくる日、ちょうど「あかちゃんがくるひ」の小さなおねえちゃんのように、私はそわそわした気持ちです。あの子のようにダンボールの箱のなかにはいったりしないで、だまって机にむかっているのです。

来年も武市さんと絵本の仕事ができるかしら。来年のことをいうと鬼が笑うって、じゃまをするかもしれないけれど、どうかそのようなことがないように。

小雨がやんで、落日がもれ、せみが鳴きはじめました。そばに寝そべっているうちの老犬もむしあつかろうと、クーラーをつければ少し寒すぎるつごうのよくない日になりました。そのなかで考えています。

「絵本づくりの仕事場より」(至光社)1969年9月より

春になって庭に花が咲きだすと、私の心はどうしてこう散漫になるのであろうか。素どおしのガラス戸から、やわらかい緑や花の色が見えると、もう私は仕事どころではなくなり、すぐ庭にでてしまう。

一日に何回となく陽光の戸外にでていると家のなかの暗い机にはどうしても向かう気にならなくなる。

春の花にはしきりに蝶がきたり、蜂がきたりする。花のほのかな香りのなかにいると、にぶい羽音がきこえてくる。仕事のことさえ気にしなければ申し分のない春なのに、申し分がなければないほど、私はこの春に悲しみを感じないわけにはいかない。春愁などという俳人の詩的な愁いではない。この世の若もののなまなましい挫折感が身にしみる春だからである。

若い苦しみに満ちた人たちよ。その若い魂と体でどうかがんばっていただきたい。若いうちに苦しいことがたくさんあったということは、同じような苦しみに堪えている人々に、どんなにか胸にせまる愛情がもてることだろう。本当に強いやさしい心の人間になれる条件は、その人が経験した苦しみが多いほどふえていく。そして又、人の心をうつ、美しくてやさしい心の作品をつくる芸術家にもなっていける。

「続・わたしのえほん」草稿 1971年より

十一月になるとある日突然、目がさめるように庭が明かるくなる。銀杏の葉が真黄いろになって一せいに庭に散り敷くからである。それは雪の日の朝の感動に似た、秋の日の一ときの思いがけないよろこびである。

けれどこの黄色い華麗な喜びを去年も今年も、多分一昨年もあじわっていない、銀杏の葉が色づきはじめたかなと思ううちに、まだ緑色がのこっているというのに、茶色に枯れてお隣からふってくる欅の落ち葉にまじっていつとはなしに散ってしまうのである。裏にできた新青梅街道に車がたくさん走るようになったせいだろうか。

「平和新聞」1971年11月25日より