わたしのちひろ

ちひろの絵と人生に思いを寄せる人々の言葉をご紹介します。

丸岡秀子氏社会評論家

あの日のちひろさん

子ども向けの小さな本(『ひとすじの道』偕成社)をはじめて一冊出したときのことでした。お贈りした方のなかで、いちばん先に手紙をくださったのが、いわさきちひろさんでした。
(中略)どっさりお仕事を持っていらっしゃるなかで、小さな本をこのように深くお読みくださって、すぐお手紙を書いてくださったことに、わたしはたいへん感動し、しばらくはことばもなくしていました。人間の心の底に置かれている傷跡とでもいえるような、深い悲しみをこのように受けとめてくださる"おとな"がいたということに、むしろわたしは驚いたのです。
(中略)そしてある初夏の一日、(編集者・白木雅子氏から)ぜひあけておくようにという連絡があったのは、いわさきさんと、わたしを逢わせる機会を作ってくださったからでした。新宿のホームでお待ちしていたら、ブルーの地に大きな花模様のワンピースを着て、つばの広い帽子をつけて、いわさきさんはいそいで傍に寄られ、はじめてごあいさつを交わしたのです。
どうしてだったのか、千葉行きの電車で小岩までゆき、「箕作」という京料理の部屋で、しみじみと語ったのが最初で、最後の語らいでした。多くの交友の経験のなかで、このさわやかな半日は、深い記憶の中にあります。わたしはそれを大切に大切に心に置いてあります。わたしにとってはかけがえのない、友情の日として、仕事のあいま、あいまに、その日を想うと、安らぎでもありました。
だから、永別の日にわたしは失礼を省みながら伺えなかったのでした。たった半日ではあったが、向かい合って、はじらいつつ、心ひらいて語り合った、あのまなざしとあの口もとに、そしてあの方しか持てない強くてやさしい人間に、わたしは永別することはできないのです。この今もなお。

『ちひろさんを語る 18枚のポートレート』(新日本出版社)1989年より